観光案内

菊池渓谷

菊池渓谷は、阿蘇くじゅう国立公園の一角に位置しており原生林に覆われた森林地帯です。数百年の巨木、高山植物、渓流がつくりだす名爆、深淵などがおりなす渓谷の妙と淡水の美は、まさに九州随一の景勝地と言える事でしょう。 阿蘇外輪山から湧き出した伏流水は日本名水百選にも選ばれています。

春~夏

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菊池観光物産館・市民広場

地元の新鮮な野菜や果物といった特産品、手作りの加工品、菓子などを豊富にり揃えた物産館です

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菊池観光交流館

菊池市民広場内にあり、菊池の観光情報や郷土資料、市民らによる作品展示ギャラリーなどが並ぶ立ち寄りスポットです。

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隈府一番館

菊池市内のアーティストや作家による作品を展示するギャラリー他菊池の地名の由来、歴史、伝統、文化産業、菊池一族などに関する民俗学上貴重な資料を保管、展示している所です。

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菊池神社

菊池神社は明治3年(1870年)に創建され、菊池氏第十二代菊池武時公、第十三代武重公、第十五代武光公が主神として祀られています

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菊池武光公騎馬像

今から約650年程前の南北朝時代の武将第15代当主菊池武光公の騎馬像で九州を平定するなど活躍した。菊池市のシンボルとして建てられたこの騎馬像です。

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菊池公園

菊池市内を見渡せる小高い丘にある菊池公園は、芝生広場や大型アスレチックもあり家族連れに人気のスポットです桜やツツジの名所としても知られております。

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竜門ダム

竜門ダムは熊本県北部を流れる菊池川の支川迫間川上流に位置しています。熊本県北部で唯一の水ガメとしての役割の他、台風や大雨が発生した場合に下流へ流す水の量を調節し、洪水を防ぐために平成14年に建てられました。

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アイラトビカズラ

山鹿市菊鹿町相良は、天然記念物で有名なアイラトビカズラの生息地として知られています日本では菊鹿町だけに自生するとされるマメ科の常緑蔓植物で、紅紫色の花がブドウの房のように垂れ下がって咲きます。

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龍王神社

金運アップのパワーを頂けるスポットとして注目される神龍八大龍王神社。

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泗水孔子公園

平成4年に完成した本格的な中国宮廷建築様式の公園です。三国志の物語や花鳥風月を描いた美しい回廊は、異国情緒漂う雰囲気を感じることが出来ます。。

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鞠智城

平成4年に完成した本格的な中国宮廷建築様式の公園です。三国志の物語や花鳥風月を描いた美しい回廊は、異国情緒漂う雰囲気を感じることが出来ます。。

夏~秋

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水辺プラザかもと

水遊びやカヌー体験ができる水辺公園や地元産の季節野菜がたっぷりのバイキングレストランなどがあり親子連れで楽しめます。2階には良質で湯量が豊富な温泉があり、大浴場の他にサウナや露天風呂などを備えています。別棟には桧風呂や岩風呂の家族風呂もあり休憩だけでなく宿泊も可能です。

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カヌー&カヤック体験

湖を囲む豊かな自然は、季節ごとに素晴らしい風景を描き出します。

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九州唯一の井手下り!

菊池渓谷からの水を取り入れてる農業用水「原井手-はるいで」を利用した里山体験です

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菊池渓谷水の駅 プレジャーパーク

熊本県の菊池川沿いに誕生した「菊池渓谷水の駅」アウトドアレジャーパーク。キッズBMXコースにボルダリング・釣り堀・アスレチック・ゴーカートなど家族で楽しめる施設が盛りだくさん。自然あふれるプレジャーパークで一日中楽しめるスポットに変身しました。

その他おススメポイント

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メロンドーム

とりたての自然を齧りちょっと一息、3つのメロンの屋根が目印です。 館内には地元の農産物がずらり。 中でも「光センサー」による糖度検査をパスしたメロンが自慢です。

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コッコファーム

熊本県北部に位置する「たまご屋」。産みたてのあたたかいたまごを直接お客様へお届けしたいという創業者の思いから始まりました。物産館には、自社直営農場から毎日たまごが直送されます。

菊池隣接スポット

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前川水源

前川水源と2連水車がある中世城址公園、初夏にはショウブ園を見学することができます。

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清水川(そうずがわ)水源

雪野集落内にそびえる樹齢百年以上はある椋の大木の根元からこんこんと清水が湧いている。

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若木水源

うっそうとした木立に囲まれ、厳粛な雰囲気が漂う。湧水池の中には巨石があり、その上に水神が祀られている。

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大滝

周辺は大滝渓谷と呼ばれ、岩壁から何本も岩清水が流れ出ている。

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迫間眼鏡橋

迫間眼鏡橋は、東西迫間に架かる橋で、荷物の運搬、水路、人々の架け橋として重要な生活を補い、江戸時代に造られて現在も活用されています。大型単一アーチ型めがね橋で、西迫間の庄屋らの功労で石工伊助が大工と力を合わせて造り上げました。休み石は、昔からよこい石と言われ、菊池一族が鳳来山の聖護寺に勉学に登る時に、この石に腰を下ろして風景(滝)を絶賛されていたと伝えされています。

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立門橋

立門橋は菊池市重味に所在する、菊池川支流の鉾の甲川を渡る上津江往還道に架けられた石橋です。棟梁は種山石工の宇市といい、名工と呼ばれた橋本勘五郎の兄です。水源地近くの最上流部であるため、川の流れも早く、また川のなかには巨石がごろごろしています。大雨の時期には増水して巨石が橋を壊すこともあったようで、下流側の石積みに厚みをつけるなどの工夫がなされています。側面からきれいなアーチを見やすい石橋の一つです。

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永山橋

『旧永山橋は現永山橋より130m下流に文政6年(1823年)に架けられたが、文政12年5月の洪水で流失している。現永山橋は明治11年完成している。架橋は古老の武藤逸美氏は「私の祖父甚平に妻(祖母)がお嫁にきたのが明治9年であった。その年が着工の年で翌々年明治11年の春約2ケ年の歳月を費やして現在の橋を見るに至った。」と語る。工事中一度枠組みに失敗してやり直したと伝えられている。

菊池一族

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初代 則隆公(のりたか)

大宰府天満宮領赤星荘の荘官として延元二年(1070)肥後菊池に下向し、菊池川上流の船運に便利な菊池市深川に館を構え、菊池の地名をとって族称とした。 荘園経営に熱意を持っていた則隆は、領内に寺社を建立した。 墓所は菊池市深川。

二代 経隆公(つねたか)

菊池氏繁栄の基礎を築く

三代 経頼公(つねより)

筑前(福岡県)に進出し、勢力を拡大する。

四代 経宗公(つねむね)

1109年、鳥羽院の武者所として京都へ行く。

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六代 隆直公(たかなお)

治承四年(1180)平氏の九州支配に反抗し大宰府を攻めたが、三年後平氏に下り、五年後の壇ノ浦の戦いでは平氏に従い、また敗れた。この両度の戦いで多くの所領を失った。 この代に「日足紋」から「並び鷹羽紋」に変わった。

八代 能隆公(よしたか)

1221年承久の乱で後鳥羽上皇方として幕府と戦いに敗れる。

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十代 武房公(たけふさ)

蒙古が来襲した文永・弘安の両役で奮戦し、弟らと共に勲功を立てたが、この時の様子は「蒙古絵詞」に描かれている。武房としては先代まで失った所領の回復を願っての奮戦だったが、恩賞は北条氏一門に多く与え、武房は不満を残したまま亡くなった。

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十二代 武時公(たけとき)

十四歳で跡を継いだ。護良親王の命により、一族を率い博多の北条探題邸に討ち入ったが多勢に無勢、全員討ち死にした。討ち入りに先立ち長男武重を袖ヶ浦に呼び、故郷菊池に帰り再起を図ることを命じた。有名な「袖ヶ浦の別れ」はこの場面である。

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十三代 武重公(たけしげ)

十四歳で跡を継いだ。護良親王の命により、一族を率い博多の北条探題邸に討ち入ったが多勢に無勢、全員討ち死にした。討ち入りに先立ち長男武重を袖ヶ浦に呼び、故郷菊池に帰り再起を図ることを命じた。有名な「袖ヶ浦の別れ」はこの場面である。

14代 武士公(たけひと)

家督を武光に譲り出家して旅に出る。

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十五代 武光公(たけみつ)

菊池本城を実力で取り戻し十五代を継いだ武光は、菊池に征西将軍宮 懐良親王を迎え、南朝方の威勢を示した。 正平十四年(1359)筑後川の戦いで親王・武光軍が幕府軍を破り、六年後九州を統一して大宰府に征西府を樹立した。また鎌倉五山にならい菊池五山も制定した。

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十六代 武政公(たけまさ)

筑後川の戦いで夜襲隊を指揮して味方を勝利に導いた武政は、正平二十二年(1367)十六代を継いだ。 隈府城を改修し北宮阿蘇神社を勧請したが、文中二年(1373)武光が戦死して以来、筑前からの敗退が続き、翌年久留米の高良山の攻防戦で戦死した。

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十七代 武朝公(たけとも)

父武政の急死により十二歳で跡目を継いだ。幼少のため叔父らの助けを得ながらも、生涯を戦いに明け暮れた。元中九年(1392)南北朝合一後も幕府に反抗を繰り返したが、吉野朝に提出した「武朝申状」は、菊地氏累代の歴史を明らかにした。

二十代 為邦公(ためくに)

1455年、朝鮮に遣使。貿易と文教に力を注ぐ。

二十一代 重朝公(しげとも)

1472年、隈府に孔子堂を建てる。菊池文教の隆盛に大きな功績を残す。

二十二代 能運公(よしゆき)

菊池氏直系最後の当主。相良氏との戦いに勝利する。

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二十四代 武包公(たけかね)

菊池家の重臣達は遠縁の詫麿家から武包を迎え、二十四代当主にした。大友氏は当時、豊前・豊後で勢力を伸ばし、筑後・玉名も勢力下に入れ、ついには当主武包を追い出し、大友重治を肥後守護にした。武包は島原に逃れたが、菊池家はこの代で断絶した。

菊池の歴史

初代藤原則隆が延久二年(1070)に大宰府天満宮赤星荘園の荘官として赴任し、菊池市深川(菊池川の右岸)に住居を構えて菊池氏を称え、一族の地名となりました。 それ以来族称を菊池と呼ばれるようになりましたが、文書に署名するときは藤原姓を使用しています。 年表によれば、663年に日本軍が百済の白村江の戦いで破れたとき、新羅の侵攻に備えるため筑紫に大野城・基肄城を構築し、さらに後方基地として菊池市から菊鹿町一帯 に鞠智城(久々知城)を設けました。この城主は地方の豪族であり、朝廷と結び付いた大宰府の府官か、郡司などの地方官職を持っていたはずで、伝承の「しょうげんどん」の地 名は「少監殿」に当り、従六位上に相当します。その後朝鮮からの侵攻もなく鞠智城が衰退してきたとき、大宰府安楽寺赤星荘園の府官として赴任してきたのが藤原姓を名乗る菊 池氏で、鞠智城から続いてきた豪族の末裔と考えられます。 菊池氏の来歴を明らかにしたものに、菊池氏17代武朝が朝廷に差し出した「武朝申状」があります。これを要約すると、中関白 藤原道隆の子である権中納言 大宰権師・藤原隆家の子政則、その子則隆が菊池氏初代で寛仁三年(1014)までの六年間、大宰 権師として九州を統治しましたが、その間北方から女真族が攻めてきた刀伊の乱があり、 武力の勝れた則隆の父蔵規がこれを助けて撃退し、また藤原隆家が眼病を患っていたとき、高麗から薬を取り寄せたりした功績により、対馬守を任命し、藤原の姓を賜ったといわれてます。 それにしても家柄を貴ぶ当時として、たとえ功績があったとしても藤原姓を与えられるというのはめったにないことで、元々菊池氏は菊池地方を本拠にしていた、鞠智城を背景に武力を備えている豪族ではなかったと思われます。しかも鵞鳥や孔雀を贈ることができたというのは、海上でも大きな勢力を持っていたということで、海外、とくに大陸とも交易を行っていたという文献も残っています。

蒙古襲来絵詞

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蒙古襲来絵詞

菊池氏十代武房と竹崎李長の出会いの場弘安四年(1281年)蒙古の大軍が博多湾、生の松原(いきのまつばら)に上陸、このとき武房が石積みの防塁に布陣しているとき竹崎季長が通りかかった場面の門答を画いています 。

【武家家伝 菊池氏】
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/kikuti_k.html

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